独断と偏見の江戸前ずし誕生論
私の独断と偏見の江戸前ずし誕生論です。決して信用しないで下さい。
江戸前ずしは江戸時代末期に華屋與兵衛さんが考案し販売したところ、とても好評を得て江戸市中に広まってゆきました。
これ以前にすしは無かったかというと江戸時代中期までは大阪すし(別名 箱すし、押しすし、関西すし)がありました。
関西で広まっていた大阪ずしは江戸時代中期には、江戸市中にも広がり専門店も存在していました。
ところが8代将軍の吉宗君が享保の改革をします。
この時出されたのが奢侈禁止令です。早い話が「贅沢な生活をしてはいけない。」という悪令です。この悪令によって大阪ずしの製造、販売が禁止されました。
(江戸時代でもおすしは贅沢な食べ物だったのですね。)
以後江戸時代の記録書にすしの記載はありません。
ここからが私の独断と偏見のすし誕生論です。
では全く無くなってしまったかというと、そうではなくお上に隠れてこっそり造っていたと思います。
大阪ずしは箱で押したすしを寿司切り包丁で小口に切り器に盛って出来上がりです。ところが腕の悪い職人が切ると上のネタが飛んでしまいます。(私もよく飛ばして怒られました。)慌てて手で直し少し押して体裁を整えます。(私もよくやりました。)
奢侈禁止令が出てから100年の間に色々な人が色々な工夫を重ねつつ、いつの間にか大阪ずし本来の押すという手順が忘れ去られ、一つ一つをこてまりずしのように造ったのではないかと思います。
最初の奢侈禁止令(江戸時代奢侈禁止令は3度出されています。)から100年を経て大阪ずしで使っていた海老、穴子、玉子、鯛、鯖、などに烏賊、白魚、さよりなど江戸前の魚も加わりバラエティーのある、こてまりすしのようなおすしに変遷していったのです。隠れて造っているので造っている人たちの連携性は無かったと思います。
華屋與兵衛さんは色々な人の色々なすしを集大成し売り出したのが現在のすしの原型です。これが私の独断と偏見の江戸前ずし誕生論です。
でもどうしても理解できない点は、華屋與兵衛さんにはどうしてお上からお咎めがなかったのでしょうか?これを考え始めると寝られないのですよ。