鈴虫の思い出
秋が深まると虫の音も弱々しくなります。
初めて一人住まいした時、母が上京する知人に託して鈴虫を届けてくれました。
母は永年鈴虫を育てていて毎年希望する人に分けてあげるのを楽しみにしています。
届いた四角いガラス鉢には蟻のように小さい鈴虫が10匹ほど入っています。
日毎に大きくなってゆきます。
9月になると鳴き始めます。初めは「リ、リ、…」と心もとない鳴き方ですが、しばらくすると「リーン、リーン」と力強いきれいな音色になります。
皆が(5匹ほどですが)一斉に鳴くと狭い部屋ではうるさいほどです。
秋も深まってくると弱々しい音色になります。
真夜中の事です。寝ていると「バリッバリッ」という聞きなれない音で目が覚めました。灯りを点け何の音なのか、音を辿り」ますと鈴虫のガラス鉢から聞こえてきます。
網の蓋を取り覗いてみますと、雌の鈴虫が雄の鈴虫を食べています。
母がずっと前に「雌の鈴虫は雄を食べ栄養にして卵を産むんだよ。」と言っていた事を思い出しました。何日かこの音に悩まされ寝不足になりますが、数日もすると元の静かな夜に戻ります。
中を覗いてみますと雌だけになっていて雄の羽だけが残っていました。
暫くすると雌も死に絶えガラス鉢からは何の音も聞こえなくなりました。
そんな頃 母からたどたどしい文字のハガキが届きました。
「鈴虫は皆死にましたか?、そのままでいいですから1週間に一度だけ霧吹きで砂を湿らせて下さい。それだけしておいてくれれば来年の春には鈴虫が生まれます。」
書かれてあった通り、時折霧吹きで砂を湿らせておきました。
翌年の春というよりも初夏に近い頃、届いた時のような鈴虫が沢山生まれました。
日毎に大きくなります。大きくなってくると小さなガラス鉢のため鈴虫たちには狭くなってきました。少しを残して近くの世田谷公園の湿気のある草むらに鈴虫を放してやりました。秋になり部屋の鈴虫が鳴き始めます。
また世田谷公園に行き、ガラス鉢の中の鈴虫を全部鈴虫の鳴いているところに放してやりました。
またあの「バリッバリッ」という音を今年も聞くのが嫌だったからです。
帰省すると決まって母は「鈴虫は元気か?」と聞いてきます。
「うん 元気だよ。増えると近所の公園に放してやっってるよ。皆んなよく鳴いているよ。」
「そらええ事やな。」と納得してくれます。
亡き母は存命中私の部屋には鈴虫がずっといると信じていました。
「お母さん、ごめんなさい。あの音は我が身を食べられているようで耐えらませんでした。」 鈴虫の鳴き声を聞くといつも母を思い出します。
店主敬白(軽薄?)