日本橋魚市場発生の話

1582年6月2日本能寺の変の時徳川家康は大阪 堺にいました。
身の危険を感じた家康一行は宇治、信楽を経て伊賀山中を抜け伊勢白子から海路で岡崎に無事帰りました。
この時一行を先導して無事船に乗せたのが服部半蔵であることはよく知られた実話です。
この時船を手配し岡崎まで運んだのは摂津の国佃村の名主森孫衛門一族でした。
その後家康に仕え江戸入国の際漁法の遅れている江戸に来て漁法を皆に教えてほしいと請われ
現在の小田原河岸一帯を所領地として与えられ佃村の漁師22名と共に入国しました。
漁師たちはしばらく仮住まいしていたのですが隅田川河口にある名も無き未整備の中州を与えられ整備し住まいとしました。後に地名は佃島となります。
当時隅田川では白魚が沢山獲れたそうですが全て江戸城に納めたそうです。一般の人が獲ることは禁じられていました。隅田川の白魚は額に葵のご紋があります。そう思ってみると本当にそう見えるから不思議です。
もちろん今は一匹も獲れませんが
江戸城に納めた残りを日本橋河岸で一般に売ることが許され近辺からも魚が集まるようになり魚市場として発展してゆきます。市場が大きくなるといざこざも起きるようになります。
1731年大岡越前の命により問屋の数は512と定められました。(私の想像ですが今の仲買人さんの数かなと思います。)
私が初めて築地市場に行った時「築地市場が新しく完成した時は2000人の仲買人がいて2000軒の店があったんだよ。今は1500軒になったけどね。」と古老が教えてくださいました。

余談ですが佃村から来た漁師さんが造った小さな祠はどれもみな摂津の国の方角を向いているそうです。
望郷の思いがあったのでしょうね。