独断と偏見のすしカウンター席誕生論

独断と偏見のすしカウンター席誕生論です。決して信用しないで下さい。
戦前まではすし屋にはカウンター席はありませんでした。
おすしは内店のお座敷で食べるか、家庭に届けていただくか、あるいは屋台で食べるかどれかでした。
戦中はおすしの販売は禁止されていましたが、戦後おすしの販売が出来るようになると、常陸やさんというすし屋の道具類を商っている人が独自のすし店を造って営業を始めました。それが現在のすし店の原型ともいえるお店です。丸太を半分に切ったカウンター席、それに合わせて少し高めの椅子席、カウンター席の先には指を洗う水が流れています。その上には氷が敷き詰められた寿司ネタケースがあります。
戦後間もなく新橋に出現した斬新なアイデアのこのすし店が繫盛しないわけがありません。連日超満員です。そしてこのスタイルが全国に広まってゆきます。
さらにこのスタイルを後押しをする法律が施行されます。
昭和33年に施行された「食品衛生法」です。この法律によって屋台のすし店の営業は禁止となります。
屋台のすし店のご主人は廃業するか、内店を開店するか選択を求められます。
この時開店したおすし屋さんは皆このスタイルを取り入れたため、このスタイルが定着し現在に至っています。
この法律によって指洗い用の流し水も禁止となりました。
カウンター席の出現によってすし店はアルコール類を提供するようになり、食堂から和食店へ変遷してゆくのです。
私 中学生の時、本屋さんで配達のアルバイトをしていました。
配達先におすし屋さんがあって、お店に入ってゆくとお酢の香り、丸太のカウンター席、お水も流れていました。懐かしいです。その時はまさか私がおすし屋さんになるとは思ってもいませんでした。「食べたいなー」とは思っていましたが。
私の独断と偏見です。決して信用しないで下さい。

独断と偏見の鮒ずし誕生論

調子に乗って独断と偏見の鮒ずし誕生論です。決して信用しないで下さい。
現在の寿司の原型といわれている鮒ずしは西暦750年ごろ中国から伝えられたと記載されています。
この頃の日本は奈良時代ですから都は奈良にありました。
伝えたのは遣唐使と一緒に日本に来た中国の人たちだったと思います。
遣唐使が日本に帰ってくる時、唐の帝の命により唐の知識人、お寺などを造る技術者、職人も一緒に日本に来ました。
知識人は都に、技術者、職人は都に近い琵琶湖畔(現在の大津市)に住まいを与えられ住まいしました。
帝の命とは言え見知らぬ土地、見知らぬ人、通じない言葉、違う食生活、望郷の思いは如何ばかりだったでしょう。
「故国で食べていた酸しを食べたい!」「でも草魚はいないよ。」「そうだ!目の前の湖に大きな鮒がいる。鮒で作ってみよう!」こうして試行錯誤の後、二ゴロ鮒での酸しが出来上がります。
当時はお米も塩も貴重品でしたから、技術者も職人さんも高待遇だったのでしょう。出来上がった酸しは宮廷に献上された。と記録にありますが、こんな臭くって酸っぱい食べ物を天皇陛下が召し上がったとは思えません。
宮廷内の唐から来ている知識人たちへのおすそ分けだったと思います。
近所の人たちはこの人たちから作り方を教えてもらい、郷土料理として現在に伝わっています。
現在のはとても食べやすくなっているそうですが、記録どうり作りますと
とても臭く、とても酸っぱいものです。
「酸し」とは酸っぱいものという意味だそうです。
独断と偏見の自論です。決して信用しないで下さい。

独断と偏見の江戸前ずし誕生論

私の独断と偏見の江戸前ずし誕生論です。決して信用しないで下さい。
江戸前ずしは江戸時代末期に華屋與兵衛さんが考案し販売したところ、とても好評を得て江戸市中に広まってゆきました。
これ以前にすしは無かったかというと江戸時代中期までは大阪すし(別名 箱すし、押しすし、関西すし)がありました。
関西で広まっていた大阪ずしは江戸時代中期には、江戸市中にも広がり専門店も存在していました。
ところが8代将軍の吉宗君が享保の改革をします。
この時出されたのが奢侈禁止令です。早い話が「贅沢な生活をしてはいけない。」という悪令です。この悪令によって大阪ずしの製造、販売が禁止されました。
(江戸時代でもおすしは贅沢な食べ物だったのですね。)
以後江戸時代の記録書にすしの記載はありません。
ここからが私の独断と偏見のすし誕生論です。
では全く無くなってしまったかというと、そうではなくお上に隠れてこっそり造っていたと思います。
大阪ずしは箱で押したすしを寿司切り包丁で小口に切り器に盛って出来上がりです。ところが腕の悪い職人が切ると上のネタが飛んでしまいます。(私もよく飛ばして怒られました。)慌てて手で直し少し押して体裁を整えます。(私もよくやりました。)
奢侈禁止令が出てから100年の間に色々な人が色々な工夫を重ねつつ、いつの間にか大阪ずし本来の押すという手順が忘れ去られ、一つ一つをこてまりずしのように造ったのではないかと思います。
最初の奢侈禁止令(江戸時代奢侈禁止令は3度出されています。)から100年を経て大阪ずしで使っていた海老、穴子、玉子、鯛、鯖、などに烏賊、白魚、さよりなど江戸前の魚も加わりバラエティーのある、こてまりすしのようなおすしに変遷していったのです。隠れて造っているので造っている人たちの連携性は無かったと思います。
華屋與兵衛さんは色々な人の色々なすしを集大成し売り出したのが現在のすしの原型です。これが私の独断と偏見の江戸前ずし誕生論です。
でもどうしても理解できない点は、華屋與兵衛さんにはどうしてお上からお咎めがなかったのでしょうか?これを考え始めると寝られないのですよ。

 

 

 

開店日に思う事

開店38周年を迎える事ができました。皆々様のお陰様と深謝致しております。

お店を出す時、永く指導していただいた板前さんに報告に行きました。
「よく考えてお店を出す事にしました。」
「たーちゃん(私の愛称です。)寿司屋が10店同じ頃開店したとして10年経つと1店しか残っていない。健康とか家庭の事情とか色々あるとは思うけど、まあ俺の経験からだから当たらずとも遠からずだけどね。
寿司屋はどの店もネタケースの中に並んでいるネタは同じようなネタだ。そんなに変わらない。握る事だってそう変わらない、少し早いか遅いかぐらいだ。
じゃあ残った店は何が違うんだろう。俺も色々考えたよ。結局はその店の店主がお客様、、すし、そして自分とにいつも真摯に向き合っている店が残るんだと思う。
さっきも言ったように経験からだから確かではないけどね。大丈夫、たーちゃんの店は10年後も輝いているよ。」
板前さんは開店の時、忙しい時、困った時いつもお願いすれば駆けつけて助けて下さいました。
お亡くなりになる少し前、私と板前さんと なるちゃん(永く一緒に修業して今は六本木で永くすし店を営んでいます。)と3人で食事をする機会がありました。
帰る時 板前さんが「たーちゃんと なるちゃんは俺の自慢だよ。胸張ってあっちへ行けるよ。」空を指さして笑いながらお帰りになりました。
開店記念日になると聞こえてきます。
「たーちゃん お客様と寿司と自分とにいつも真摯に向き合っているか!」

 

 

 

 

11月13日のお知らせです。

本日のお薦めです
中とろ うに あなご  ひらめ あじ  いわし 墨いか

        ア‘ラ‘カルト
小肌ガリきゅうり巻のおつまみ 650円
お刺身少し盛り 850円    茶碗蒸し700円  からすみ 850円 

 

 


 

           <本日のご予約状況>
お席をご確認後のご来店をお勧め致します。

 カウン ター席

                2名様

 テーブル席

                 名様

 

誕生日に想う事

今年も無事に誕生日を迎える事ができました。感謝です。
誕生日にはいつも両親を想います。
父は私が一歳の時43歳で病死しました。
顔も姿も声も何一つ記憶がありません。
成長期に父がいない事に不自由さや不都合を感じたことはありませんが、
43歳は大きなハードルでした。
44歳になった時、安堵感と共に、父はこんな若さで亡くなったのか、幼子4人を残してさぞや心配であっただろうと父の無念さを想いました。

父亡き後は母が女手一つで育ててくれました。
昭和25年はまだ戦後の復興期です。今のような母子家庭への手厚い保護などありません。周りの生活保護の勧めも明治生まれの母は「人様の情けは受けない。」と断り赤貧の生活が続きました。
母が亡くなる少し前「お母ちゃん 幸せ?」と問うと笑いながら「幸せやよ。そやけどなお前たちが小さくってお母ちゃんとお前たち4人とで片寄せ合って暮らしていた頃がもっと幸せやったな。」
「えー。あの頃はお金も何も無くって、食べる物にも事欠いた頃が?」
「ほうやな 毎日どうやってお前たちに食べさせようかと困っていたけど、今振り返るとあの頃が一番幸せやったな。」
「お金や物が沢山ある事が幸せではないのだよ。」母の最後の教えです。
私の誕生日は亡き両親に感謝する日でもあります。
合掌

 

天国の先生お元気ですか?

拝啓
天国の先生お元気ですか?
そちらでも社会科を教えていらっしゃいますか?
今日は先生にお詫びを申し上げなければなりません。
もうご存知とは思いますが、安保法が可決致しました。
憲法の授業の時先生はおっしゃいました「9条は何百万人の尊い命の代償として得た尊い条文です。決して改正してはなりません。もし改正しようとした時は断固反対して下さい。憲法は有権者の3分の2以上の賛成がなければ改正出来ません。みんなが反対すれば改正出来ないのです。みんながお父さんやお母さんになった時その子供たちにそしてその次の子供たちにもこの事を伝えて下さい。」
先生 今回は憲法を拡大解釈する閣議決定をして安保法を可決しました。
私の投票の出番はありませんでした。これって姑息な方法ですよね。
私が心配になったのは閣議決定が憲法の上にあるという事実です。
ならば閣議決定をして拡大解釈すれば何でも出来てしまいます。
専制政治、独裁政治、恐怖政治にだってなってしまいます。とても怖い事です。
一度も国会へ抗議デモに参加する事無く可決してしまいました。
申し訳ありません。言い訳をするようですが選挙権を得てから一度も戦争に賛成する党には投票した事がありません。これだけは褒めて下さい。
先生 私ももうすぐ沢山の土産話を持ってそちらにお伺いいたします。
あの頃の私は紅顔の美少年でしたが、今は好々爺となってしまいました。
私からお声をお掛けします。「おう平田君じゃないか、君はちっとも変わらないね。」と言って温かく迎えて下さい。
その日を鶴首の思いで日々体に留意して過ごします。
寒くなって参りました。先生もお体ご慈愛賜りますようお願い致します。
敬具
平田 正

検察庁デビューしました。

私 検察庁デビューをしました。
この様に書きますと「親父さん とうとう…」「やっぱり…」などと誤解しないで下さい。私は被害者での事情聴取でお伺いしています。
3年前店内で酔って器を破損し、制止しようとした私の頭を叩いた犯人がいます。
この犯人何を間違えたのか、私の頭を叩いた後「私 人を殴りました。」などと110番通報をしてしまったので大変です。
すぐにパトカーが2台駆けつけ店内は騒然となりました。表は人だかりです。
私と犯人は別々のパトカーに乗せられ成城警察署へ
3時間程の事情聴取のあと「平田さん 暴行罪が成立しますが提訴しますか?」
「します。犯人は私を怒らせ、私が犯人に対して暴力をふるうのを待っていたのです。その為に延々と悪態をついたのです。私が犯人に対して暴力をふるったら傷害罪
で訴え慰謝料を要求するつもりだったのです。きっと以前どこかで今日と同じ事をして慰謝料をせしめていると思います。今後のため提訴します。」
署名捺印して帰ってきました。
ところがその後成城警察署からは何の通知も無く3年が経過して事件の事はすっかり忘れていました。
先日成城警察署から電話があり「平田さん〇月〇日〇時検察庁の〇〇検事のところへ行って状況説明して下さい。」かくして私の検察庁デビューとなりました。
検察庁でも成城警察署と同じように説明して署名捺印して2時間程で帰ってきました。
状況説明が終わったらきっと出てくると思っていましたカツ丼はどちらでも出てきませんでした。ちょっとガッカリ。

 

夏季衛生講習会場にて

夏季衛生講習会に出席しました。
受付をすませると世田谷保健所長さん(この時は女性でした)が近寄ってきて
「母の日に仙台からご注文はありましたか?」
「ええ有りましたがなぜご存じなのですか?」
「実は4月末ごろ保健所に桜上水駅近くのだんらんというお寿司屋さんの電話番号を教えて欲しい旨の電話がありましてね、応対にでた職員が緊張してどんなご用向きでお問い合わせですか?と問いますとね
私は仙台で暮しています。今度の母の日に母の好きなお寿司をご馳走しようと思います。実家にはだんらんというお寿司屋さんが届けに来ていた事を思いだし連絡しようとしたのですが電話番号が分かりません。世田谷区役所の電話番号が控えてあったので区役所に電話して保健所の電話番号を教えていただきかけています。
安堵した職員が笑いながら私に許可をを求めにきましたので許可をしました。
職員が本当に注文があったのか聴いて下さい。というのでお聞きしたのですよ。
「はい お代は現金書留で届けていただきました。」
「それは良かったですね。」笑いながら去って行かれました。
今ならインターネットですぐ検索できる事ですがまだ普及していない頃の事です。
でも保健所に電話番号を問い合わせる事を思いついた事はすごい!

辛子豆腐

今年も姉から辛子豆腐が届きました。
東京では冷奴はねぎ、生姜等薬味を載せ醤油を掛けて食しますが、私の生まれ育った岐阜県関市では練辛子を醤油で溶かしながら食します。初めて食べる方は驚くか笑います。幼い頃豆腐を買いに行くと必ず練り辛子を付けてくれました。
数年前姉から届け物があり、その中に辛子豆腐が少し同梱されていました。
今は1人分用にドーム型に成形されパック詰めされています。
器に取り醤油を掛け箸で豆腐を取り崩すと中から練り辛子がでてきます。
2015062602辛子を醤油に溶かしながら食べます。
姉に電話で「幼い頃のちゃぶ台での食事を思い出しましたよ。冷奴しかなかったけれど、笑い声は沢山あったよね。」とお礼の電話を入れると翌々日沢山の辛子豆腐が届きました。以来毎年今頃届きます。
姉の可愛い弟への愛なのか、貧しかった頃を忘れないようにとの戒めなのかは定かではありませんが…。